京都観光 おすすめ 京都の美術 江戸時代~明治時代

2019.09.29 (日)

京都観光 おすすめポイント 京都の美術 京都の絵画 江戸時代

徳川幕府は、御所や二条城の障壁画を江戸の狩野探幽の一派に命じて描かせました。一方狩野永徳の画風を引き継ぐ狩野山楽・山雪は京都で豪華な襖絵を大覚寺や妙心寺天球院に描きました。戦国の動乱の影響を受けた土佐派は一時期堺に避難していましたが、土佐光起が御所の絵所預に復帰し「大和絵」を再興して、大徳寺真珠庵通僊院にて「花鳥図」襖絵を描きました。

江戸時代中期に御所出入りの呉服商雁金屋に生まれた尾形光琳は、弟の尾形乾山との合作で華麗な足跡残しました。また池大雅・与謝蕪村・伊藤若沖・曽我蕭白・円山応挙・呉春・原在中などを輩出し、文人画・写生画の諸流派が形成され今日の日本画の礎が築かれました。中国絵画に憧れた池大雅・与謝蕪村は南画家と称されました。伊藤若沖・曽我蕭白・円山応挙・呉春・原在中は町衆の支持を集め、独自の個性的な画風を展開して京都画壇の中核をなすようになりました。

円山応挙は「粉本」(手本)による絵画制作から写生にもとずく制作姿勢を確立しました。与謝蕪村の教えを受けた呉春は四条通に居住していたので四条派と呼ばれました。呉春の弟である松村景文を中心に優れた絵師が生まれました。円山派は写生中心、四条派は絵師の心を映し出すという特徴がありました。

祇園祭りの華である山鉾のうち、月鉾の屋根裏に円山応挙の草花図が残されているように、山鉾の装飾には多くの絵師が参画し下絵を描きました。伊藤若沖は鶏を好んで描き有名になりました。相国寺に動植綵絵を残し現在御物となっています。伊藤若沖は錦市場の八百屋の出身です。曽我蕭白は室町時代の曾我派に鶏頭し奇矯な画風で円山応挙に対抗しました。原在中は写生画に土佐派の画法を加え穏やかな襖絵を大徳寺等に残しています。

幕末の安政年間に造営された京都御所の障壁画の制作に参加した絵師の多くは京都の絵師で、この時点では既に江戸時代初期の狩野派の影響力はなくなっています。今日京都御所で眼にすることができるのは、円山派、四条派、土佐派、原派、岸駒の岸派が主体になっています。

京都観光 おすすめポイント 京都の美術 京都の絵画 明治時代

明治時代になると万国博覧会出展のため「美術」という言葉が生まれました。日本最初の美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)が創設され、四条派の塩川文麟の弟子幸野媒嶺や竹内栖鳳や上村松園などを輩出しました。西洋画については、東京美術学校の教授だった浅井忠を京都高等工藝学校(現在の京都工芸繊維大学)に招き西洋画壇の礎が形成されました。

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