京都新城 所JAPANで紹介されました
京都新城 所JAPANで紹介されました 高松塚古墳級の発見

豊臣秀吉が晩年築いたとされる城郭「京都新城」の石垣と堀の跡が京都御苑内の仙洞御所で見つかりました。消火設備の設置に伴い仙洞御所の一部を調査したところ、石垣が出土しました。石垣の周辺からは豊臣家の家紋(五七の桐)の入った大量の金箔瓦(きんぱくがわら)の破片が出土しました。この金箔瓦(きんぱくがわら)の発見が決めてとなり高松塚古墳級の発見ではないかとも言われています。
京都新城 所JAPANで紹介されました 聚楽第(じゅらくだい)と京都新城の関係

豊臣秀吉は京都新城が築城されたとされる1597年からさかのぼること10年の1587年に聚楽第(じゅらくだい)を完成させました。後陽成天皇の行幸や徳川家康の謁見も行われた歴史的な場所です。1591年に豊臣秀吉が関白職を甥である豊臣秀次に譲った後、聚楽第(じゅらくだい)は豊臣秀次の邸宅となりました。しかし1595年に豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に追放され切腹させられました。豊臣秀吉は豊臣秀次を謀反人として印象付けるため、聚楽第(じゅらくだい)を破却してしまいました。聚楽第(じゅらくだい)の破却に伴い建物の多くは伏見城に移転されました。大徳寺の唐門も同様にもとは聚楽第(じゅらくだい)にあったものです。京都三閣のひとつである西本願寺の飛雲閣も聚楽第(じゅらくだい)から移転されたと伝承されていましたが、京都新城から移転されたという説もあり改めて検証がなされることと思います。
京都新城 所JAPANで紹介されました 京都新城の歴史

聚楽第(じゅらくだい)を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として建てられたのが京都新城です。豊臣秀吉自身は伏見城に居住し、新城には豊臣秀吉の嫡男である豊臣秀頼が居住していました。豊臣秀頼はここ京都新城で元服も迎えています。京都新城が禁裏東南の地に建てられた理由については諸説ありますが、この地は御堂関白藤原道長が土御門第を構えた場所と言われていて、豊臣秀吉も御堂関白藤原道長に憧れてこの地を選んだんだのではないかと考えられます。
1598年に豊臣秀吉が伏見城で亡くなると、豊臣秀頼は家督を継ぎ大阪城に移りました。1599年には高台院(北政所)が大阪城から京都新城に移られました。1600年の関ヶ原の合戦を前に京都新城の防御施設の一部が撤去されました。関ヶ原の合戦後も高台院(北政所)が京都新城にお住まいになっておられましたが、その規模はどんどん縮小され一部は取り壊されて二条城に運ばれたともいわれています。
1626年に後水尾天皇が攘位の意向を示されると、徳川幕府は仙洞御所の建築と京都新城の解体を命じます。西本願寺飛雲閣の移転時期もこの年にあたり、「飛雲閣は豊臣秀吉の遺構」や「飛雲閣は徳川家の寄進によるもの」といった文献の裏付けにもなります。同様に西本願寺の唐門や醍醐寺の唐門も京都新城から移転されたと言い伝えられています。豊臣家の繁栄と衰退を京都で直接感じることの出来る場所がまた一つ出現しワクワクしています。
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